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2024年05月09日
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『今晩は裕次郎です』がスタート

2009年07月03日

昭和の出来事:昭和38年7月3日から
『今晩は裕次郎です』がスタート

 

今日は何の日60年代・70年代プレイバック ~忘れられない今日がある~ 毎日更新

1963年(昭和38年)7月3日(水)のニュース
裕次郎がゲストを呼ぶ『今晩は裕次郎です』

裕次郎がゲストを呼ぶ『今晩は裕次郎です』
 
石原裕次郎がテレビに本格的に進出した番組『今晩は裕次郎です』が日本テレビ系で放送開始。
水曜夜の9時45分からの30分番組で、第1回ゲストは長嶋茂雄、浅丘ルリ子、村田英雄、渥美清という面々。この番組は石原プロが制作している。
石原はこの年の1月、「石原プロモーション」を設立。
このころは、映画会社が五社協定を申し合わせをし、映画スターたちが映画からテレビに進出しはじめた時代である。
ちなみに写真は、人気の証で作られた石原裕次郎メンコ
映画「嵐を呼ぶ男」のドラムを前にポーズを決めるワンシーンは有名。
(資料協力:まんだらけ)
 
 

 

 

『太陽の季節』の映画化に際して、日活に原作使用を依頼された兄は弟の主演を条件に出していたが、すでに主演が長門裕之に決まっていたために、翌1957年に映画化された『狂った果実』に、人気が高くなっていた裕次郎が主演した。『狂った果実』はその衝撃的な内容と裕次郎の演技が話題を呼び、裕次郎の歌と共に大ヒットし、この作品以降裕次郎の人気は決定的なものとなった。川島雄三も「これからは彼の時代だ」と絶賛した。多忙のため1957年に大学を中退している。母は「大学を出るまでは学業に専念せよ」と望んでいたからである。

前年に裕次郎はテイチクと専属契約し、若者の“太陽”(カリスマ)であり歌う映画スターともなる。日本人として初めてLPレコードを出している。意外にも副業にも手を出していて四谷でステーキハウス「フランクス」を経営していたことがある。彼はあがり症だった為、車に乗ったとき自分の曲を音楽関係者が歌っているデモテープを聞き、彼なりの独特の歌唱方法を身に付けた。当日のうちに曲と詞を覚え、レコーディングスタジオをについたときには水の江の進言によりレコーディングの時は必ずビールを飲んだ。レコーディングの際ヘッドホンを生涯一度も付けなかった。またレコーディングは一回で成功したとも言われ、その後はすぐに忘れてしまうという。再度同じ曲に試みる場合は楽譜(詞入り)があれば思い出せるという[要出典]。吹込みでは数多くのバンドのセッションをレコーディングでこなしてきた。彼はペン字も達筆で(手紙において多い)、英語も読み書きが出来たそう(映画・曲で随時流暢なアメリカ英語を披露している)である。

これ以降立て続けに主演映画がヒットし、ブームが起こる。庶民性が大衆に支持されたからである。客が殺到して、草履や羽織まで落ちていたという逸話もある。常に彼はファンからの声援にこたえるため「歌手ではない。俳優だ。」と言った。1959年には成城に豪邸を完成させ話題となった。 人気が絶頂を迎えた1960年に女優の北原三枝と結婚。裕次郎はデビューする前から北原のファンで、いくつかの映画で共演もしていた。当時、映画スター同士の結婚はタブーであったが、北原とアメリカへ逃避行を遂げ、日活の堀久作社長が二人の交際を認めて帰国した。結婚後の記者会見で「独身最後の夜だと思って、ハシゴ酒をあおり、5:30に帰ってきた。」というエピソードがある。『銀座の恋の物語』(1961年)などヒット曲を連発した。
(出典:wikipedia)
 

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